憎い 弔いの読経、すすり泣く声、鳴り響く木魚。 世界はこんなにも音で溢れているのに、静の耳には何の音も入らなかった。 今夜は静の旦那の通夜である。 死因は転落死。近くの崖で足を踏み外し、悲しくも頭をぶつけて、あっという間に死んでいった。 突然の凶報に皆が慌て、それでも多くの人間がこの通夜に訪れている。 思えば静の旦那はそれはもう「良い人」で通っていた。困っている人がいたら居ても立っても居られなくなるというのが彼の口癖であり、そしてその通りに実行していたのが彼の性質である。実際今夜の弔問客の多くが、生前、彼のお世話になった者ばかりであるのだ。 「この度は…本当に何を言っていいやら…。奥さん、僕は悲しいです。あんなにも良い人がこんなにも早くにこの世を去ってしまうだなんて…っ」 「奥さん、覚えていますか、僕の事を。僕がまだ大人になる前、学ぶ金を工面してもらった事を。…まだあの時のお礼をちゃんとしていないのに。こんな事になるなんて…」 皆一様に静に声をかけ、自分がどれ程悲しいかを告げていく。 ──しかしその言葉、どれをとっても静の頭に響かないのだ。 静はただ一人、夫の棺を眺めていた。ぴくりとも動かず、目も動かさず、忘れた頃に重くまばたきをするぐらいである。 その姿を見て、多くの人はさらに彼の死に涙をする。まるで感情を持たない人形のように呆然とする静を見て、さらに彼の死を悼む。 あぁきっと奥方は、彼を心底愛し愛された奥方は、彼の死をまだ受け入れずにいるのだ。悲しみの渦に吸い込まれていってしまったのだ。皆がそう思った。 ──だが、違うのだ。皆が思う事が真実ではないのだ。むしろ逆なのだ。 彼の棺をじっと見つめる静の目に、悲しみの色も、寂しさの色も感じられない。彼女の目にともる炎は── 恨み。 周りの人間は知らない。静の体に着物に隠れてつけられた痕を。それをつけたのが、彼女の夫である事を周りの人間は知らない。 「気に食わねぇ、気に食わねぇ、全てが気に食わねぇ」 「あなた!およしになって!」 「五月蝿ぇ!」 夫の怒号の後に、静の悲鳴が鳴り響いた。 打撲、切傷、火傷、等々。 着衣で隠れてしまう所を夫は執拗に攻めた。だから顔や手足は綺麗なままだが、胸や腹の辺りは酷い。そしてそれを彼は世間から隠すように強要してくる。少しでも露出してしまうと、人気の無い所でさらに酷い仕打ちを受けた。 この傷は静と彼の秘密なのだ。 だから他人は彼の性質を知らずに、彼をさも素晴らしい人のように崇めるのだ。 静はそれが気に入らない。 強く強く棺を睨み続ける。生前ならこんな事をしようものなら腹を殴られるだろう。でも彼はもう居ない。死んだ彼に殴られる事はもうないのだ。 だからじっと棺を睨んでいた。 ──あぁ、周りはなんとも愚かだろうか。 彼の外面を、まるでそれが全てであるかのように扱う。騙されているとも知らずに、彼を素晴らしい者として扱う。 愚か者め、愚か者め。 彼の本性を知っている者は私しか居ない。だから周りは皆愚か者だ。 果たしてこの中に彼の本性を知る者が居るのであろうか。いや、絶対に居ない。間違いなく居ない。居る筈がないのだ。 「おぉ。これはこれは、実に悪い奴だ」 突然聞こえた声に、静は弾かれた様に体を硬くした。今まで音は全く聞こえなかったというのに、今にしてようやく耳に入った。 誰だろうか。今の声は誰だろうか。彼の本性を知る者は誰だろうか。 辺りを見回す。誰も居ない。いつのまにか式も終わり、静を残して皆帰って行ったようだ。 部屋の中はほのかに暗い。故人の側の蝋燭がいくつかと、静の為の最低限の光源。そして── 炎をまとった獣。 「悪い奴だ。悪い奴だ。」 獣は棺の周りを飛び跳ね、どことなく嬉しそうだ。 静はあまりの事に全く声が出せないでいる。怖い筈なのに、恐ろしい筈なのに、全く声が出ない。叫びたくても叫べない。 獣が棺を開け、さらに死体をまじまじと眺めた。その姿は死体の臭いを嗅いでいるようにも見える。 「良い人です、みたいな面ァしてサ、こういう奴が一番悪いんだよ。なぁ、そこの女、お前もそうは思わないか」 獣に声をかけられたが、静はやはり応えられない。 「こういう悪い奴はさ」 獣が笑う。口元を大きく歪ませ、大きく笑う。 「この俺が連れていくんだぁ」 ──お前みてぇな女、俺ァ物足りねぇんだよ。 静は獣の言葉を本気で嫌だと思った。 確かに彼は凄く悪い奴だ。何度自分を傷つけた事だろう。 でも、それでも静は嫌だった。 ──嫌だってんならよぉ、もっと俺を満足させろよ。できもしねぇのに。 静は思い出に浸る。 あれは彼が亡くなった時の事だ。 ──文句あんのか。俺がどうしようが、俺の勝手だろうが。 あの場に呼び寄せた。聞きたい事があったから呼び寄せた。 女の事。 他の女に手を出しているという事を聞いて、彼を呼び寄せた。 彼の返事は予想通りで、それは静が一番聞きたくない言葉だった。 何の為に今まで我慢してきたというのだ。私には彼が、そして彼には私しか居ないと思ったから、これまでずっと我慢してこれたのだ。この傷もあの傷も、愛の証だと誤魔化して今まで生きてきたのだ。 許せなかった。怒りもわいた。だが、それ以上に── 「連れて行くな」 静はようやく獣に対して口を開く事ができた。 怖いとか、そういう気持ちは不思議ともうない。 「それを連れて行くな。それは、な、それ、は、な」 声が震える。 「誰のものにもしたくなくて」 思うに一瞬の事だと思う。 「自分のものだけにしたくて」 手 を 突 き 出 す だ け で よ か っ た の だ 。 「私が殺したんだ!」 ──獣はただ何も言わずに、笑うだけだった。 了 「憎い」 座太郎・作 妖怪【火車】 戻る |