風の波、光の凪



 ところどころ雲が流れ、満月で明るい空き地。
 夕立後の草の匂いと湿度が仲良く踊っている。
 一本だけ残された、それほど高くない木の根元。香箱を組んでいた雄の雉猫が立ち上がり、
「なおん」
 と、一声を発する。
 ぽつらぽつらと空き地に屯していた猫たちが、三々五々、動き始める。家路を急ぐ者、連れ立って逢瀬と洒落込む者、情報交換をする者、そして遊び始める者。猫の集会は、いつもこうして終わるともなしに終わってゆく。
 そんな様子を懐かしみつつ、この場で唯一見知った顔である最初に鳴いた雉猫に歩み寄り、
「久し振りじゃないかぇ」
 と、声をかける。
 振り返った雉猫は一瞬の間の後、軽く驚いたように、
「おお」
 と返し、のたのたと、丸い体をこちらへ向ける。そして、少し弾んだ声色で、
「あんた、しばらく見なかったが、生きてたんか」
 そう続け、目の上の髭を揺らす。
「おまえさんも、くたばりそこなってたみたいで安心したよ」
 目を細めつつ憎まれ口を返してやる。久方ぶりの殺伐としないくらいの軽口が心地良い。
「ここらじゃ一番の長生きになってしまったからな」
 立ち話が少々辛いのか、そう言って雉猫は腰を下ろす。
 あたしの方も応えるように腰を下ろし、しっぽを左側から前足の方へ向けて、体に寄り添わせ、
「憎まれっ子、ってやつかい?」
 と、数回の瞬き。
「憎まれるだけで長生きできるなら苦労はせんよ」
 飼い猫であるこの雉猫は、いい下僕に恵まれている。一点を除いて。
 その一点は、あたしの自惚れでなければ、あたしの生き方をも変えてしまったもので。
「そんな憎まれ口たたくから、くたばり損なってるんじゃ」
 でも、それももう、お互いこの歳ならいい想い出さね。たぶんね。
「そういうあんたこそ、真っ白なのは相変わらずだが、しっぽは萎れたか」
「おまえさんだって、自慢の髭が随分と疎らになっちまってるじゃないか」
 その分、色々と重ねてきたものね。
「お互い様じゃの」
 選べなかったものと、
「そうね」
 選ばれなかったものと。
 緩い風が二匹の間を温かく通り過ぎる。
 それを合図とするかのように、二匹は示し合わせたように軽く『にゃはは』と人間染みた苦笑いをし、そして、
「ほいじゃ達者でな」
 鼻先で挨拶を交わし、雉猫は重い体をのっそりと揺らしながら、まだ待つ人がいる家へと帰る。そして数歩進んで、ふと気付いたかのように一度振り向き、ゆっくりと数度、あたしに頷いてみせる。
 あたしは、悪戯がばれた子供のように撫肩を竦めてみせ、少し照れた微笑を返す。
 それに満足したのか、雉猫は改めて家へと足を向け、やがてその姿は垣根の向こう側へと隠れてゆく。

 古馴染みを見送り、風を楽しみつつ空き地を見渡すと、木から離れた片隅で茶ぶちと黒ぶちが談笑している。その近く、
「えいやっ」
「そうじゃないだろー」
「そいっ」
「へったくそだなー」
 二匹の仔猫が、虫を相手に狩の練習をしている。二匹は共に茶が控えめなブチで、団子しっぽの仔の方が優位な立場のようだ。
 やがて二匹は虫を相手にすることをやめ、この言うほど広くもない空き地を縦横無尽に使った追いかけっこを始め、それは更に縺れあいから取っ組み合いへと発展する。
「ちょっと狩が上手いからって意地悪なんだよ」
「だから教えてやってるんじゃないか」
 どたばた。じたばた。ぺし、てんてんてん。そして、対峙。
「こらこら、おチビさんたち。ちょっとあたしの話を聞いてみないかぇ?」
 何に気が向いたんだろう、気紛れとは面白いもので、何故かこの仔たちと話してみたいと思ったのだ。
「なあに?」
 双子のように声が重なり、揃ってこちらに振り向く。
「おまえさんたちは、兄弟かえ?」
「うん」
 思わず目を細めてしまう。あたしは仔を持たなかったから、どうもこの年頃の仔には弱い。
「で、狩の練習をしてたのかぇ?」
「うん」
 と、また、声をそろえて元気に答える。そして、まるで鏡のように互いの顔を見、狩が上手い方が、こう言う。
「だってこいつ、才能なくて鈍いんだ」
「なにをー」
 しっぽの長い方がムキになり、少し声が尖る。
「まあまあ、喧嘩できるのも仲がいい証拠みたいなもんさ。ところで」
 おそらく、毛が綺麗なこの仔らは飼い猫だろう。野良猫よりは波は穏やかと言えば言い得るが、猫の一生なんて皮肉に満ちている。
 そう思い、軽く嘆息した後、自分でも意外なほどに優しく二匹の顔を交互に見比べ、言葉を繋げる。
「おまえさんたち、名はあるのかぇ?」
「ボクは、やん。やんちゃだから、だってさ」
 こっちが兄にあたるのかしら。狩が上手い方。団子しっぽをぴくぴくと細かく震わせる。そして、
「ぼくは、ぱた。しっぽの動きがそう見えるみたい」
 しっぽが長い方がそれに続く。
 明らかに、下僕につけられた名前だ。自分の見立てが正しかったことに、少し髭を揺らす。
 あたしは名付けられたことがなかったから。名付けられるよりも前に下僕に気に入られ、その後は常にただ一匹の猫であったから、そのまま『ねこ』と呼ばれていた。下僕はそれでよかったらしいし、あたしにも不都合も不満もなかったので、全く気にしてはいない。むしろ、下僕の中の『ねこ』をあたしだけで占めているという優越感が、なかったと言えば、それは嘘になる。
「やんは、狩が上手いな?」
 下僕は狩が下手だった。平べったい茶黒いカサカサと動くのすら満足に狩れないくらいに。
 そのくせ、ふらっと外に出ては大量のエサを持って帰るのだから、下僕の習性はわからない。
「うん!」
 間髪入れずに答える。その瞳は輝いていて、褒められることに慣れ、かつ、期待しているようだ。
 そんな誇らしげな表情にを微笑んで見遣り、軽く頷いた後、
「ぱたは、しっぽが長いな?」
 と、視線を移し問いかける。
 下僕は、あたしのしっぽが佳いと、ことあるごとに褒めてくれた。そんな思いが余ってか『二本に増えればいい』とまで言っておった。
 バカだね、それじゃ化け猫になっちまうじゃないか。何度も何度もそう思ったが、勿論、言ったことはない。言ったところで言葉は通じやしない。それこそ、本当に化け猫にでもならなけりゃ、ね。
 本当に、間の抜けた奴だったよ。
「うん。下僕にもよく褒められるよ」
 控えめに答えるぱた。と、
「こいつずるいんだよ。狩が出来ないくせに、やたらと下僕に懐かれるんだ」
 やんが、言葉尻を重ねるように、そう言う。
 おやおや、さっき褒めなかったのが気に障ったのかしら。
 そんな感情のじゃれあいすらも、いとおしい。
「羨ましいか」
 やんの方へと問いかける。
 やんは、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべ、そのまま、
「……うん」
 と軽く俯く。
「やんは、下僕が好きなんじゃな」
「うん。好きー。でもでも、お母さんのことも、ぱたのことも好き」
 普段より一際丸く明るい月のせいか、比喩ではなく、目を輝かせて言う。
「それはいいことだね」
 あたしと下僕は常に一対一だったから、たくさんの『好き』があるというのは、あたしにはよくわからない。ただ、この仔らを見ていると、それはそれでひとつの形なのだろう、とは思う。
「ぱたは、やんの狩が上手いのが羨ましいな?」
 目を細めながら、問いかける。
「うん」
 いかにもおとなしそうな声が返ってくる。
 下僕がいる飼い猫である以上、狩は生きるのにはそれほど重要ではない。かさかさしたのやひらひらするのが入ってきた時に、それを仕留めてやる程度で事足りる。
 そして、あたしではなく、なぜか下僕が自慢げな表情をするのさ。
 その目尻が下がった表情が好きだった。それだけでよかった。
「?」
 あら、いけない。
 ちょっと浸りすぎてしまった。二匹が怪訝な顔になっている。
 照れ隠しに、しっぽの位置を微調整し、再び二匹に語り始める。
「やんは、物を壊したりして怒られたりしてないか?」
 やんは、小さく頷く。
「ぱたは、しっぽを踏まれて痛い思いをしたことはないか?」
 ぱたは、『わかってもらえてる』とばかりに大きく目を開き、大きく数回頷く。
 そうした後、二匹が顔を見合わせ、
「そうなの?」
「うん」
 と、目と目で通じ合う。
 そんな仲のよさを確認し、あたしも『うんうん』と頷く。
 そして、やんと視線を合わせ、
「狩が上手なのは才能だが、それ故に怒られたりする」
 と。視線をぱたに移し、
「好かれるしっぽも才能だが、それ故に痛い思いをしたりする」
 と。
「才能なんて、あったらあったでそんな一長一短、便利な万能の道具じゃないんだよ」
 充分に幸せだったあたしが言うのも、なにか妙な気がするけど。
「だから、お互いに仲良く助けあっての。周りから見たら、どっちも可愛いんだよ」
「お母さんと同じこと言ってるー」
「むずかしいとこわからなかったけどねー」
 そう言うと二匹は、元気に声をそろえてコロコロと笑う。
 本当に微笑ましい兄弟だ。でも、あたしは少し、老婆心が過ぎたかもしれないね。思わず、あたしもつられて笑ってしまう。
「こんばんは」
 不意に、左側から声を掛けられる。
「お母さん」
 重なった二匹の声が、その猫をそう呼ぶ。
「はい、こんばんは」
 と、そちらを向くと、先程は空き地の隅で話をしていた黒ぶちがいた。ということは、茶ぶちはこの仔らの父親かしら。
「あのね、ぼくにも才能があって、やんにも才能があって、どっちも可愛いんだってー」
 ぱたが、率先して嬉しそうに報告する。
 母猫は、その報告をニコニコと頷きながら聞いた後、
「うちの仔が面倒見てもらったようで、ありがとうございます」
 と、目を細め、やんに似た団子しっぽの位置を気にしつつ腰を下ろす。
「いや、こんな年寄りの話をおとなしく聞ける、いい仔たちですよ」
 その『いい仔たち』は、お互いの体を舐めあっている。
「ところで、あなたは? 初めてお会いすると思いますが」
 母猫があたしに問う。
「あたしは、そこの角を曲がった家で下僕と暮らしてたのさ」
 そう正直に答える。
「先日、人が亡くなった? それはお寂しいことでしょうね」
 窓の外を歩く猫は何度か見ていたから、ある程度知られているだろうとは思っていた。でも、下僕の死まで噂になってたのか。
「先に逝っちまって寂しがってるのは、あっちの方じゃないかね」
 そう強がってごまかすけれど。
 少しだけ、なんか、心がちくっと。
「そんなわけで、久し振りに顔を出せたんだわさね」
 わざと軽く言って、紛らわせる。
「それでは、外へ出ることも随分と久しく無かったのですか?」
 あたしは白猫だから白髪は目立たないが、毛並みが覇気を失う程には、時を重ねてしまっている。
「そう、ね。あの雉のオヤジしか見知った顔がなかったからね」
 この空き地は、最後に見た時からそれほど変わっていなかったけれど。
「随分と永い時間が経ったのかもしれないね。あのオヤジが丸々と太るくらいにはね」
 少し、からかうように。おもしろおかしく。
 本当はあの雉猫が丸々になったのは、まだ若いうちのことで。同時に、少し、物悲しそうな表情が多くなったっけ。
 遠くを見るような、申し訳なさそうな。でも、ちょっとだけ、何かから解放されたような、諦めにも似た切なさを湛えた微妙な穏やかさで。
 それは、あたしが下僕と暮らし始める、ちょっと前の話。
 ──おっと。いけない。母猫が反応を待つように、あたしの表情をうかがっている。
 あたしは慌てて、
「懐かしい話さね」
 と、取り繕ってみせる。
 ふと見ると、やんが自分の顔を洗っている横で、ぱたが舟を漕いでいる。
「あらあら、年寄りの話は長くて申し訳ないね。この仔らはもう、おねむのようですよ」
 野良では命取りになりかねない、恵まれた猫ならではの無用心さが、可愛いながらも、ちょっとあぶなっかしい。
「ここいらはまだ安心だが、色々世の中物騒だからの」
 下僕があたしに言い含めるように繰り返した言葉を、そのまま口に出してしまう。下僕は、あたしが外に出ることを良しとしなかった。
 あたし以外は家に入れようともしなかったくせにね。
 思い出して、少し笑う。
 けれど、それも想い出になりかけているという感傷が、少し笑顔を曇らせる。
「あら、ほら、もう帰るよ」
 母猫はそう言いながら、ぱたを鼻先で突付いて起こす。
 ぱたは気付いて薄目のまま左右を見渡し、それでもまだ眠そう。
 母猫はぱたの首筋に口を寄せ、くわえて運ぼうとするも、
「んー、だいじょうぶ。歩けるよ」
 と言いながらも、まだ少し眠た気な、ぱたの頭をひと舐めして、
「やんは、だいじょうぶ?」
 と声をかける。応えて、やんは、
「だいじょうぶー」
 と言うのだが、髭を整える手と舌のタイミングがずれている。
 ほんに、子供というのはいつでも急だ。寝るのも、動くのも、そして、成長してゆくのも。
 そして、今は、あたしのことを軽々と追い越してしまいそうな、この仔らが愛しい。
 いや、本当は『この仔ら』に限った感慨ではない。全ての子供たちに。
 追い越してゆくその姿に、笑顔で手を振って『転びなさるなよ』と応援すらしたくなる。
 あたしが立ち止まって、それでも。
 そして。
 あたしは追い越したいわけじゃない。ただ。
 母猫が、二匹の仔を鼻先で急かす。
 二匹は寄り添って、互いに互いを支えるように歩き、家へと向かう。
 母猫はあたしに軽く礼を言い、そんな二匹を見守るように後を追ってゆく。
 しかし、もう、その母仔の姿は視界の隅にすら入れずに。

 そして、あたししかいなくなった空き地で。
 暫し想い出の去来に身を委ね、その温もりを懐かしみ。
 いかほどの刻が経ったかもわからずに。あるいは、ほんの数瞬。
 改めて一息ついて、その一本の、かつては自慢だった、今はもうすっかり歳相応の長いしっぽの毛づくろいをして。
 丁寧に。願いを込め。
 やがて、やや前方へ向けて湾曲する髭が、凪の到来を報せる。
「そろそろあたしも、のようね。下僕──あいつはあたしがいないと」
 雲の切れ間から、一筋の光条。
 大儀そうに、しかしくるりと綺麗に蜻蛉返りした後、光条の元を見上げ、少し照れくさそうに、白くも長く充分な毛並みが整った、二本の尾を揺らした。
「さて、早く追いついてやらんとな。さぞ寂しがっているだろう」
 そう口に出してみて、自分の嘘に少し照れる。

 誰もいなくなった空き地。
 凪が終わり、草も光も揺れることを思い出す。
 月には、ぼやりと、虹がかかっていた。




「風の波、光の凪」
栗野鱗・作
妖怪【猫又】





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