倩兮(ケラケラ)



ぼくは小さいころから、お母さんの笑った顔が好きでした。
だからぼくは、勉強をいっしょうけんめいがんばりました。
テストで百点ををったら、お母さんは笑顔でぼくの頭をなでてくれます。
でもいつからか、その笑顔が少なくなってしまいました。
僕が百点を取って家に帰っても、ピクリとも笑わず、まるで当たり前だと言わんばかりの表情です。それどころか、少しでも間違えてしまうと僕の事を酷く叱りつけました。こんな間違いをするなんて馬鹿だとなじるのです。
母の笑顔を見たいが為に頑張った勉強も、怒られるのが嫌な為に行う勉強に切り替わってしまいました。
そして私は、今日も勉強をするのです。
本来は自分の知的欲求を満たす為の勉強の筈なのに、本来の目的を見失って、ただひたすらに机に向かい、勉強をする毎日。
そんな私に、母が一度、笑顔を見せてきました。
「あなたはやっぱり、●●の血を引いているから」
その●●という言葉は酷く侮蔑する言葉だった記憶があります。だからいくら頑張っても駄目なんだと、母は侮蔑の言葉をどんどん投げかけてきます。でもその言葉よりも、私の心に強い印象を与えたのは──

倩兮、倩兮──

笑い声、笑い顔。

母の笑顔が好きだった筈なのに、母の笑顔が嫌いになってしまいました。

それ以来、僕の後ろにはあの女がいつも笑っているのです。

◆◆◆

ある日、夕暮れ時。
普段ならもう家に帰って勉強をしている筈の私が、何故か職員室に居る。開け放たれた窓の向こうから、部活動に励む学生の声が風に乗ってやってくる。
「君の成績は確かに素晴らしいよ」
目の前にいるのは担任の教師。確かクラスメートが評するには少々熱い先生だという事。あぁ、そういえばこの前の体育祭でも自ら円陣を組もうと皆を集めたのはこの人だったか。──私にはあまり関係のない話だが。
「どの教科も申し分ない。このまま難関大学も余裕で入学する事ができるだろう」
褒められているのだろうか。その割には声のトーンが妙である。
「だけど君はそれでいいのか?」
担任の目つきが変わる。私の瞳をジッと睨み付ける。
「確かに勉強も大切だけど、勉強するだけが学生じゃない。もっと青春とかさ、そういうの、ないかな?」
そうして担任は私に笑いかけた。口元を歪め、目を細め、頬を僅かにあげ──

──気付けば私はいつの間にか自分の部屋にいて、机に向かっていた。
いつの間に帰っていたのだろう。そしていつの間にテキストを開けて、数式をズラズラ書き綴っているのだろう。

倩兮、倩兮──

笑い声、ほら、きた。

後ろを見るな。後ろを見るな。後ろを──

見た。

女は今日も居た。私を眺め、倩兮と今日も笑っている。
長い髪は整っているようで、いや、乱れており、その幾重にもすだれている細い房から覗く顔。
あぁ、今日は担任の顔か。ぼんやりとだが、わかる。酷く滑稽だ。
「お前は勉強ができる」
「でも、ただそれだけ」
「青春とかしようよ」
「本当にお前は──」
最後の言葉を言われる前に私は手元の消しゴムを奴に向かって投げつけた。
すると女の笑い声はもうなくなる。
ぼんやりとした顔で、笑顔を浮かべるだけである。

◆◆◆

ある日、住宅街。
学校から帰ってきた私は、そのまままっすぐ家に向かう。寄り道はしない。何故なら早く家に帰って勉強がしたいからだ。
「あら、あれ、山下さん所のお子さんじゃない?」
後ろから声がした。おそらく、近所のご婦人方だ。先程道の角で群がる彼女達を横目に僕は通り過ぎたのだ。
「山下さん所のお子さん、本当にすごいわね。よく勉強できて羨ましいわ。うちの子に爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいぐらい」
「本当にそうだわ。私もあんな子が欲しかったわ」
「あら、私だったら杉崎さん所の子の方がいいわ。礼儀正しいし、ほら、昔からかなんか演劇をさせているでしょう」
「え?あれって本当なの?プロのなるっていう…」
「そうよ、本当よ。本当なのよ」
「じゃあ私も山下さんよりも杉崎さんの方がいいわ」
そうして彼女らは甲高い笑い声をあげ、騒ぎ──

──気付けば私はいつの間にか自分の部屋にいて、机に向かっていた。
いつの間に帰っていたのだろう。そしていつの間に参考書を開けて、蛍光ペンでひたすら重要単語を塗りつぶしているのだろう。

倩兮、倩兮──

笑い声、ほら、きた。

後ろを見るな。後ろを見るな。後ろを──

見た。

女は今日も居た。私を眺め、倩兮と今日も笑っている。
長い髪は整っているようで、いや、乱れており、その幾重にもすだれている細い房から覗く顔。
あぁ、今日は先程の女性達の顔だ。ぼんやりとしているので、まじまじ見ようとすればする程にその顔は変わっていく。その顔はあの人であり、その人であり、あの場にいた全員だ。
「あの子が自分の子だったらどんなに鼻が高いか」
「でも、それだけ」
「余所の子なんか、もっと凄い」
「だってお前は所詮──」
最後の言葉を言われる前に私は蛍光マーカーを奴の顔目がけて投げつけた。
すると女の笑い声はもうなくなる。
ただ、私に対して笑顔を向けるだけである。

◆◆◆

ある日、洗面台。
私はずっと、下を向いて歩いてきた。アイツの笑い顔が嫌いだから、その笑い顔と同じような笑い顔を見ないように、ここ最近、ずっと下ばかりを歩いて生きている。
耳には音楽を聴くフリをして、ヘッドホンをかけている。ある程度の笑い声はこれで遮断される。勿論授業中はそのヘッドホンは外す。授業中は笑い声が生まれる事などほとんどないからそれでいい。たまに笑い声が発生したら、蚊に刺されたものとして、自分のちょっとした不幸にとどめておく。
私は完璧に一人だ。だが、これでいい。不快な思いをするぐらいなら、一人で生きることの方が遥かに楽だ。
一人。
一人で思い出したが、今この部屋には私しか居ない。
久しぶりに顔をあげてみた。
そこに居るのは──

倩兮、倩兮──

あの女。

いや、違う。正しくは鏡に映る私なのだが、鏡の中の私は何故か女のように髪をのばし、倩兮と笑みを浮かべている。
「ようやくわかった。お前の正体」
担任の先生の時は顔がぼんやりとしていた。近所の女性達の時も顔はぼんやりとしていた。
だけど私の時はくっきりと顔がある。
だから、これは私なのだ。コロコロと姿を変えてきた私は、ただ単に他人の顔を借りていただけで、本来の顔は私の顔なのである。

倩兮、倩兮──

笑い声が響く。ヘッドホンをしているにも関わらず、その笑い声はどんな音よりも大きい。

「ようやく気付いたか、うつけ者」

倩兮、倩兮──

「やはりお前は所詮──」

やめろ、やめてくれ。そこから先は聞きたくない。
私は鏡に向かってあらゆる物を投げつけた。だが、鏡が割れるだけで、その鏡の破片にそいつはいるし、何よりも声は止まない。
何故なら、その声は私の内から聞こえてくるのだから。

「やはりお前は所詮──」

私の内から聞こえてくるのなら仕方ない。
私は割れた鏡の破片を握りしめた。赤い血がぽたりぽたりと滲み出る。

「おもしろくない」

あいつの声がそれを告げるのと、私の首に鏡の破片が刺さるのは、ほぼ同時だった。

──おもしろくないのに、笑われた。







「倩兮(ケラケラ)」
座太郎・作
妖怪【倩兮女】





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